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私の読書日記(1) 古代インドに学ぶ

 

『経済セミナー』20085月号所収後に加筆修正

橋本努


 学問の言葉は、自己表現の手段ではありえない――そんな青い考え方をしていた私が、「社会科学の言葉の力」に啓かれていったのは学部二年生の時分、岸本重陳先生の講義(社会科学概論(?))を通じてではなかったか、と思う。講義の内容はほとんど忘れてしまったが、岸本先生は毎回、なにか深遠なことを一つだけ、例えば「価値とはなにか」といった問題について、妙を得た論じ方をされた。その語り口に魅了され、私は読書に引きこまれていくことになった。

 「一日、百ページを読まない人は、学生とはいえない」。それが岸本先生の口癖で、メッセージを額面通りに受けとめた私は、最初はむちゃくちゃな読書をしていた。難しい本を避け、簡単な本でもって量を確保する。つまらない本や雑誌をガツガツと読み、とにかく分量をこなそうとする。おかげで身についた事柄といえばなにもない。いまから思えば、痛い、辛い、意地らしい経験であった。

 ところが半年くらい経つと、この分野の語彙にも慣れ、思いもよらない読書体験に襲われる。マルクスの『資本論』など、いくつかの本を同時並行で読んでいると、私にも何か、社会の深層を解明できるのではないか、という気にさせられたのだ。そのなんとも言えない体験から、私は「言葉の社会」を信じるようになっていった。自分の言葉と社会の言葉が、深いところでリンクしはじめる。そしてその言葉が、「社会に対峙するための言葉」が、心の内側から育っていった。

 大学院に進学すると、しかし求められる読書量はケタ違いだった。哲学者廣松渉先生の講義に熱心に参加したのだが、廣松先生は、「一日、六百ページを読まないとダメだ」という。しかも先生は、「学部二年生までに、岩波文庫の白帯をすべて読み終えていないと、哲学を志すことはできない」というのだ。

 いやはや、すごいところに来てしまったようだ。読書を仕事の一つとする世界では、学生に対して、生活ギリギリのところまで要求をする。「あなたは潜在的には、大哲学者になるだけの素養がある。そのための実践をしろ」というわけである。この無限に近い読書要求に照らして、私がなしえたことと言えば、その少なさに、いまでも恥ずかしい思いをする。けれども、そんなむちゃくちゃな読書量を掲げる廣松渉先生の著作『マルクス主義の地平』は、とにかくすばらしい。本書から私は、世界観を揺さぶられるほどの感銘を受けたことを記しておきたい。

 むろん、大学院生時代に感銘を受けた本といえば、それほど多くはない。大量に本を読んで、しかも精査、整理、批判、創造の過程を踏破しなければならない。どんなにすぐれた哲学者の著作でも、対等に勝負するつもりで「読む」ことが求められる。そんな雰囲気のなかで思考してきたおかげで、大思想家と勝負する度胸はついたものの、素朴な感動を読書に求める心性は、しだいに失われていったような気がする。

 それでも読書の感動は、不意に襲ってくる。その瞬間を、私はいまも待ち望んでいるようなところがある。最近になって、私が心底感動したのは、J・ゴンダ著『インド思想史』(岩波文庫)と、M・ウェーバー著『ヒンドゥー教と仏教 世界諸宗教の経済倫理U』(東洋経済新報社)、の二冊だ。

 電車のなかで何気なくゴンダの『インド思想史』を手にして、最初の数十ページを読んでみると、驚愕の底に陥(おとしい)れられた。ある種の恐怖さえ感じた。これまで私が考えてきた事柄、そのオリジナルな思考のタネが、すでに蒔かれているではないか。私がなぜこれまでインドに憧れてきたのかが分かった。

 オランダ生まれのヤン・ゴンダ(1905-1991)は、国際インド学会の最高峰、といわれた学者で、膨大な原典の精査によって従来の偏狭なインド思想史をぬりかえたことで知られる。彼の入門書『インド思想史』は、紀元前一〇世紀ごろから紀元八世紀ごろまでの思想を通観したもので、「思想の復元作業」と呼ぶにふさわしい。歴史のなかに埋もれた精神が、ゴンダの知性を通じて蘇えるという、そんな臨場感が伝わってくる。

 紀元前の昔の思想について、それが推し量り難いとか、曖昧にしか分からない、ということはないだろう。およそ人間の精神は、連綿とつづく前世から引き継いだ魂を、いわば内側から復元していくようなところがある。だから思想史の作業は、他人事ではありえない。自分はひょっとすると、古代インドのバラモン(僧侶階級)の末裔(まつえい)で、オリジナルにめぐらしている思考の航海も、しょせんはかれらの考えたことの域を出ていないのかもしれない。

 そういうことがしばしば生じるので、ナルシスティックに自分の思考をたどるだけでも、あるとき古代の精神に直結する。ゴンダの『インド思想史』は、綿密なテキスト解釈を通じて、そうした無媒介の対面を可能にした類稀な著作ではないだろうか。自分がどこからどこへ向かうのかを知るためにも、こうした思想史との対峙は欠かせない。

 ところで、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン(1933-)は、インドのベンガル地方出身で、「ケイパビリティ(潜在能力)」アプローチによって名を馳せた。「ケイパビリティ・アプローチ」とは、人々の生活に必要な基本財の供給をめぐって、読み書きや自治といった、基本的な能力を実現する仕方で、財配分の適正を考える。その発想の背景には、ヒンズー教もあるのかもしれない。例えば「梵」の概念と「ケイパビリティ」の関係を考えるだけでも、無限に豊かな経済思想の可能性が開かれているように感じられる。およそ人間は、あらゆる潜在能力を手にしたならば、「何をなすべきか」という価値の問題に煩わされることはない。「可能(できる)」は「当為(すべき)」を導くとしばしば言われるが、ある閾値を越えてしまえば、「可能」は「当為」を減じる方向に向かうように思う。ケイパビリティ・アプローチとは、「いかなる当為にも依拠しない社会」を実現するための理念とみることもできよう。

 経済と思想のこうした思索をめぐって、古くは、マックス・ウェーバーの『ヒンズー教と仏教』が古典とされている。二〇〇二年にその翻訳が再版され、私も最近になって再読してみたが、これがまた面白い。とくに本書の第二部で、古代インドの知識人層(バラモン)の教説から、騎士階層(クリシュナ)の現世内行為主義の救済論が派生し、さらに、ジャイナ教において初期資本主義の倫理が生まれるという件(くだり)は、圧巻だ。

ウェーバーのモチーフとして、宗教の本質を概念的に掴み取りながらも、それが「いかにして資本主義を生み出すのか」を解明するという、経済倫理の問題がある。ウェーバーは、かりに西洋近代の資本主義が没落した後にも、インドの資本主義に期待していたかもしれない。いわゆる「中間考察」と呼ばれる論稿(『宗教社会学論選』所収)の最後では、ウェーバーは、合理的な神義論の形態を、三つ指摘している。プロテスタンティズムの預定説、ゾロアスター教の二元論、インド知識人の宗教意識である。ウェーバーは、この最後の形態が最も論理的で、形而上学的にずば抜けているとみた。ではいったい、ウェーバーはインド思想に資本主義のどのような源泉を見出したのか。

 二一世紀の資本主義は、すでにインドによって駆動されている。その駆動力たる精神を解明するためにも、『ヒンズー教と仏教』は重要な著作であろう。経済思想の課題が「現代の資本主義精神を解明すること」にあるとすれば、本書はその出発点となるようにも思われる。